視力が悪くなる裏には深層心理が深く関わっている
視力低下の肉体的な理由
目が悪くなる、つまり視力が低下する理由として、物理的にはパソコンやテレビ、スマホなどの画面を近くから見続けることや、勉強のし過ぎなどが挙げられますよね。
昔から漫画のキャラクターなどでガリ勉キャラなどはみんなメガネをかけていますよね。また現代人の多くは近眼が多い一方、アフリカの平原に住む民族などは視力が2.0以上の人が多いという話も聴きます。
アフリカ人のタレント、サンコンさんは以前、「僕の視力は悪い方だ。」と言って聴いてみたら視力3.0だと答えたそうです。アフリカの見晴らしの良い広大な平原に住む人たちは常に遠い景色を見ていますし、野生の動物が獲物であるため常に遠くにいる獲物を見ています。
ですから、必然的に遠距離を見れるように視力が発達しているのでしょう。
比べて先進国の若者は、テレビ、スマホ、ゲームの画面を日常的に見ていますし、ビルなど建物に囲まれているため、遠くにあるものを見る必要がありません。必要がないと言うよりは、遠くを見ることができないくらい建物や物、壁に囲まれているということですね。
ですから目のレンズが、遠くを見たり、近くを見たりするための弛緩運動がないため、近くを見ることに慣れ過ぎてしまっています。
そのため、目の筋肉が退化しているのは事実であろうと思います。
しかし、そのもっと奥には、潜在意識が視力を悪くしている理由があります。
入る情報が脳のキャパを継続的に超えていると視力が落ちる
それはその人の脳が処理する情報の容量を超えているため、これ以上情報をインプットさせないようにするため、目が悪くなるという理由です。
先進国では学校で教える勉強の量は多いですし、受験となると幅広い教科に加えて暗記しなければならないものも非常に多いですよね。
ガリ勉タイプが目が悪くなる理由はやはり勉強のし過ぎが原因ですが、目が悪くなるということはその人の脳のキャパシティを超えたことをしているとも言えます。
勉強はしなければならない。でも深層心理では、「勉強したくない、疲れた」という心があると、これ以上脳に情報を送らないように防衛本能で最初に目が悪くなっていきます。
近眼がスピリチュアルの視点で何を意味しているか
遠くの物が見えにくくなるという現象は、目の前の現実なかりを見ていて夢を描く能力や未来を見ようとする心の欠如を表していることがあります。
近くのものは見えるが、遠くのものが見えなくなる
ということは、目の前の現実的なことや、枝葉末節の枝葉に当たる部分について固執してしまう心理があります。「木を見て森を見ず」ということです。そして、長い目で見る、大きな目で見るということや、先のことが考えられない刹那的な生き方になっていることも表します。
最近の子供は、昔の子供に比べて奇想天外な夢を描いたり、空想力がなくなったと言われています。
昔であれば「将来はウルトラマンになる!」とか、「宇宙ロケットのパイロットになる!」といった壮大な夢を語る子供が多く、それこそが子供の自由奔放な発想の特長とされていました。今の子供は、眼鏡をかける子供が多く、親から勉強で良い成績を取ること求められたり、ネット社会も手伝って大人の情報を子供が簡単に触れることができます。そのためか子供の方がかつて奇想天外な子供だった大人に比べて非常に冷めている印象があるのは私だけではないでしょう。
と、同時に明らかに現代の子供たちは目が悪くなってる子が多いはずです。昔であれば子供で眼鏡をかけていると、クラスメートから「メガネ!」とあだ名されることもありましたが、今は眼鏡をかける子供が珍しくありません。眼鏡をかけているくらいで「人と違う子」という印象がないのでからかわれることもないでしょう。
最初に視力に障害が出る時期
それが顕著に出るのはやはり中学生以降ではないでしょうか。最近は小学生でもメガネをかけている子が増えたようですが、前述した潜在意識が脳のキャパを超えた勉強を強いていくと視力が悪くなっていくという法則から考えても、テスト勉強、受験勉強が本格化するのは中学生くらいからですよね。
私自身も類に漏れず、小学生時代は1.5あった視力が、中学生になってから0.3まで一気に落ちました。当時はテレビゲームのやり過ぎか?と思っていましたが、ゲームの頻度やプレイ時間は小学生の頃と中学生の頃と大して差はなかったです。何か変化があるとしたらやはりテスト勉強を中学生になってからするようになったことです。
私は元々理数系が苦手だったのに加え、方程式を習う時期に風邪で1週間休んだため、独力で方程式を理解して追いつかなければいけない状況になったので、常に一歩遅れている分負担が大きかったようです。またテストも大きな活字でカラーで見やすかった小学校時代のテストと違い、先生の手書き問題でさらに藁半紙へのガリ版刷りでした。
それが異様に見づらくて、元来勉強嫌いだったこともありテストの問題を読むこと自体がストレスでした。
もちろん耐性があるというか、脳のキャパや勉強にストレスを感じない人であればその理由で視力が低下することなないわけですが、私は学校の勉強自体は嫌いで苦手だったので顕著に目が悪くなっていきましたね。
ガリ勉タイプが眼鏡をかけるのは理由がある
では、勉強に関心があるガリ勉タイプがなぜ視力が落ちていくのか。
自分から勉強が好きでやっていても、目が悪くなるということはストレスではないように思えますが、受験勉強や、テスト勉強というものは短期間に集中して学習する分、脳に負担がかかることは間違いないでしょう。
そうしたライフスタイルが数年続けていればやはり身体のサインとして視力が悪くなることはあり得ますよね。
勉強のし過ぎが悪いとは言っていません。要はバランスの問題で、勉強ばかりというのが原因と考えられます。お釈迦様が悟ったように人間は中道から外れた生き方に摩擦や苦しみ、問題が発生するわけですから。
余談ですが、ガリ勉タイプの人が後にどういった問題が起こるかというと、集団や周囲とのコミュニケーション力と愛情の欠如という形として出てきます。
また親から勉強するように言われてガリ勉になっているケースもあるでしょう。
その場合は当然潜在意識としてもストレスがかかりますから、視力低下としても顕著に出ると思います。
なぜ歳をとると老眼になるのか
老眼は新しいものを受け入れられなくなる心を持つと進行する
若い時の視力低下とは違って、近くの細かい文字などが見えづらくなる老眼の原因はどうでしょうか。
医学的には目の筋肉が老化によって伸び縮みしなくなるとされていますが、深層心理の側面からの私の見解では、
「これ以上学ぶものはない」「学ぼうとしない」という、何か他から学ぼうという意識が薄まることによって起きる現象です。
年齢的には40代くらいから老眼が始まりますが、ちょうどその頃になると勉強は一通りやって実社会での経験も積んで、世の中はこういうものだ、人生はこういうもの、という意識に変化していきます。新しいことにトライする、新しいことを勉強して吸収するというよりは、今まで勉強したこと、経験したことを活かして社会で活躍する働き盛りです。
この心理が、良くも悪くも「できあがった状態」になっていくと同時に老眼が進んでいく感じです。自信を持つと同時にもう他から学ぶことはない、という深層心理を作り上げていきます。そうすると、前述した原理から「学びたくない」「学ぶ必要がない」という意識で新しい学習情報を拒否するよう目のつくりになっていくわけですね。
思考の硬直化が視力の筋肉の柔軟性を奪う
そして結果、本や文章が読みづらくなる老眼になっていくということです。
老眼にならない人は、ある意味柔軟な思考を持っていたり、特定の思考や行動にとらわれない人ではないでしょうか。思考が一定のパターン化してしまって、考え方や行動が変わらなくなってくることを仏教では「有(う)の状態」と呼びますが、これは固まることを意味して、連動するように目の筋肉も固まってくるわけですね。
もちろん、40年以上生きたことによって、情報を入れる脳のキャパに40年間得た情報が目一杯詰まってしまったために視力が低下するという原理も重なります。
歳を取ると新しいことが覚えられない、もしくは昔のことを忘れて思い出せない、といった現象が起こるのも人間の脳のキャパに関連したものです。
視力の回復としては、目の筋肉を柔らかくするために遠くを見たり、近くを見たりする肉体的な訓練と同時に、常に他から学ぼうとする謙虚で柔軟な心を持つことが鍵となってくるでしょう。
老眼はあの世への旅立ちの準備でもある
老眼について述べてきましたが、ある意味で老眼は誰でもなり得るものですよね。
ですから、先に述べてきたように新しいものを学ぶ心理がなくなってきたり、思考が硬直化することのように悪いことばかりではありません。近くのものが見えなくなる=現実問題を直視できなくなるということは、第一線から退くことも意味します。つまり、いつまでも老人がバリバリで視力も能力も高いままであることは、若い世代が育ちづらいという環境を同時に作ってしまうのです。
これは神様の視点から言っても好ましくはないのです。人間には必ず生死が与えられていますが、これはこの世の新陳代謝も意味しているのです。そして死が近づく=老化現象が起こる=全盛期の能力が落ちてくる、ということは、この世の執着を取り払うために『必要なこと』として予定されていることなんですね。
徐々に目が見えなくなっていくということで、この世での生に対して執着をなくしていく、つまり諦めることを学ぶ必要があるわけです。
そういう意味では老眼も1つの摂理であり、自然の流れにそっているのです。ですから40代~60代くらいでまだ身体が元気なうちは、「まだまだ第一線で働くぞ!こんなところで老いてたまるか!」と気張って、柔軟で新しいことに関心を持つ心を保つように努力されることが良いでしょう。
しかし、ある程度は「これも自然の摂理」と人の生き死にの流れを受け入れて、現実よりもあの世の勉強をされた方が良いのかもしれません。
目のスピリチュアル的な意味
以上、視力低下とスピリチュアルな理由を分析してきましたが、ここまで来ると目のスピリチュアル的な意味もわかってくるかと思います。
目は、心が何を見ようとしているかを表す
目はやはり外界の情報をインプットするための機能を担っているので、学習や柔軟な姿勢を司っています。だからと言って視力が良い人が、イコール物事を見る目があるとか、学習能力が高いというわけではありません。
あくまでマインドの部分と連動しています。正しいか正しくないかは別として自分の中で考え方や物事に対する結論が固まってきて、特に外からの情報によって自分を変えていく必要がないという意識が高まると老眼になっていくように感じます。
ですから、まだ老眼が始まったばかりの時期に「この本からは学べる!」という思いで本を読むと一時的に老眼が治ったかのように見えるようなったという事例もあります。
また、聴力と違って、視力の場合は見ようとする意識によってもレンズの筋肉が復活することが多々あるので、マインドとのリンクが表れやすい部位でもあるようです。
近眼の人はもっと大局を見るような心を
私の友人で、40代でも相変わらず視力が良い人がいます。その彼は自他共に「夢追い人」と呼ばれることがありましたし、揶揄的な意味では「あいつは相変わらず子供だな」とも言われていることがありました。そして目が悪くなってくると「夜空の星を眺めて視力を回復させるんだよ」と豪語して、本当に視力が落ちない人です。
と、いってその彼が常に大局を見るような大人物?というわけでもなさそうなんですが(笑)、少なくとも遠い未来に目を向ける心の傾向があったのは確かです。これは一部の例ではありますが、やはり近眼の人は目の前の些末なことにはとらわれず、長期プランで未来のビジョンをしっかり描く心持ちを心がけましょう。
老眼の人は新しいものを自分に取り入れようという心を
老眼で困っているようであれば、やはり「まだまだ自分は様々なものから学ぶ必要がある」と謙虚に若い人や、新しいもの、流行りものものに関心を持ちましょう。自分というものが出来上がってしまうと老眼が進みます。自分が出来上がってしまうことは「自信」と引きかえに周囲から浮いた存在になってしまうリスクを伴います。
よく「頑固じじい」「もうろく爺さん」という言葉を聴きますが、本人は自信満々でも周りの若い人からするとそのように映ってしまって、現役の人と思われなくなってしまいます。そうなると周囲は一歩引いた対応をするため、自分でも浮いている存在だと気づかなくなったり、自分が客観視できなくなってしまうのです。
老眼のため新しい身近な情報が入りづらくなり、痴呆の原因にもなりかねないでしょう。むしろ老眼になったからこそ、若い人の意見や、最新情報を敬うようにしてください。ご自身の経験からの人生の悟りはどんなに素晴らしいものであっても、神様は人間に無限の成長を求めるものです。
だからこそ、この世は常に諸行無常と新陳代謝が起こるシステムになっているわけですから。