親などの親族の介護には何の意味があるのか No.19

高齢化社会の到来で、介護問題で切実な悩みを抱えている人は多いでしょう。現役世代が親の介護の為に働く時間などが制限されてしまう為、収入が減る上に、付きっきりの介護によるストレスで精神的にも経済的にも共倒れになる場合があります。介護側がうつ病で自殺することも多いと聞きます。介護問題は何の意味があるのか、またその対処方法を考察します。

親を介護する意味

要介護の認定がされ、ヘルパーや、施設などが利用できる条件が揃っていれば良いのですが、問題はそこまで至っていないが、部分的に介護が必要で、家族など親族が世話をしなければならない状態が一番現実的に辛いのでないかと思います。夜勤や早朝などに仕事をしていた人であれば、辞めなければならなかったり、日中の仕事であっても支障があれば変えなければならないでしょう。

介護問題は、介護そのものが体力的にも精神的にも負担になります。介護される方が、高齢によって、言葉は悪いですが『わがまま』と感じられるような態度であったり、認知症などで言葉が通じない、まともな会話ができなくなってしまっている場合は、さらに精神的な負担が増えます。しかも、決まった時間だけ世話をすれば良いというようなものではなく、24時間対応となると、普通なら心身共に疲弊してしまうのが当たり前です。

赤ちゃんのお世話も大変ですが、赤ちゃんの場合、日々の成長を感じることで心理的に希望や、明るい未来を見ることができますが、高齢者の介護の場合、逆に日々衰えていく親の姿や、大変さが増していく一方であるため、精神的に滅入ってくるのが現実です。

しかし、親を介護するという事に限って言えば、これは1つの愛の恩返しの機会を与えられていると言えます。仏教的な言い方をすれば『利他行』になりますし、キリスト教的に言えば『愛の行為』と言えるのです。

なぜ介護という利他行をするのか

昔の日本には、姥捨山と言って、働けなくなった年寄りを山に捨てて、食いぶちを減らすという伝説があります。当時には当時の様々な事情があったとはいえ、人は、赤ん坊の時には親からすべての世話をしてもらい、大人になるまで親の世話や恩恵を受けます。この恩を返すという意味でも、年老いた親のすべての世話を、子供がするのは当然でしょう。

また、現代では医療の発達もあり、寿命だけは延びている状況ですが、健康寿命とは異なり、平均すると亡くなる前の10年くらいは、健康生活に何かしらの支障が出て、他人の世話がなければいけない状態になっています。同時に、現代人は自我が強く、自己中心的な考えで生きる人が多く、結婚すら、自分の自由を奪うものとして捉えて、伴侶に対する愛や、子孫を増やす、子孫を育てる、といったことに抵抗を感じる人が増えてきました。自分が周囲から受けている恩恵を忘れ、「自分の人生なんだから自分のために生きて何が悪い」という考えを人目もはばからず口に出せるのは、かなり個人の自由がきく自由な時代になってきたとも言えますが、反面他人のために無償で尽くすという心が欠如している人が多くなってきているのも事実です。

これは、個人によっては、あまりにも自分を抑えて生きるストレスからの解放の思想にはなりますが、人類全体の主流派となった場合は、神様の意に反しています。そうした現代人に対する反作用として、半ば強制的に利他行を経験するのような世の中になってきています。自分以外の人に対して、何も見返りも、対価もなく、無償で尽くすという心と行為を学ぶわけですね。

結局、人は自分以外の者に対する愛や、尽くす心、行動を神様から望まれているので、どこかのタイミングで必須科目として、無償奉仕の精神わ養う課題がプログラミングされているわけです。もちろん、伴侶に対してや、子育てをしている人であっても、親に対する尊敬や、恩返しの精神を学ぶ意味でも、介護問題という課題は出てきます。

介護する側の学びと心構え

介護の苦労は、現役世代が自分の足を止めて、これから死にゆく人のお世話をするわけですから、合理的に考えたら、生産性もなく負担だけそこにあるように感じることもあるでしょう。

しかし、介護を通して得られるものもあります。それは前述したように、無償奉仕の精神です。言い換えれば愛の思いと行為です。この世の、人間的立場からの価値観で言えば、人の倖せとは、何も苦労がなく、不自由なく、良いことばかりが起きて、自分の希望、夢、目標達成を実現できることが最高と考えますが、実は人生とは裏テーマがあります。それはこの世を去った後の『霊界』と呼ばれる永遠の魂の世界での、人生のテーマです。今述べたように、人は自分の倖せを求めて生きるという本能がありますが、実はこの世的な倖せを求める過程で、神様の心に近づいていくための学びや、精神性のレベルアップ、人格の向上といった形のないものを得るというテーマを持っているのです。この世の一般的な『成功』というものを測る物差しがあるとすれば、それは財産やお金の額であったり、どれだけ大富豪のようになれるか、というものが、1つの基準となるでしょう。一方、神様から見た人生の『成功』とは、どれだけ『無償の愛』と『我を捨て、人のため生きることを喜びと感じる心』を得ることができるかです。

そういう価値観で言えば、この介護という課題に取り組むことは、非常にチャンスなわけです。これが、仕事であれば、対価としてお金をもらうことになります。お金をもらうことは悪い事ではありませんが、この世で生きるために必要で、誰もが欲しがる『お金』をもらえるからやる、ということであれば、『無償の愛』にはならないのです。どんなに好きでやっているとしても、お金がついてくるということでは、本心で無償の愛となっているかが測れません。また親や伴侶の介護というものは、自分を育ててくれたことへの感恩報謝の実践にもなります。これは人として、当然のことでもあります。

特に親への恩というものは、子供の立場からではなかなか恩返しできるものではありません。親孝行という言葉がありますが、たいがい子供というものは、自分の人生を生きることで精一杯で、本心から感謝を込めて、親孝行をするだけの余裕ができる頃には、親は他界してしまうことがほとんどです。親孝行ができたかを振り返った時に、「自分は十分親孝行できた」と満足できる人は、少ないのではないでしょうか。なぜなら、自分が生まれてから大人になるまでの期間に限定したとしても、どれだけの世話をしてもらったことでしょうか。赤ちゃんから成人するまでを考えたら、親にどれだけ守られ、どれだけ生かしてもらったことかを考えた時に、素直に涙がでるほど感謝の思いが出ないようでは、まだまだ我が強いと言っても過言ではありません。たとえ、親が普通ではなく、暴力や、虐待をするような親であったとしても、今、成人としてまともに生きられているのなら、反面教師の割合が高かったとしても、やはり親があなたを捨てなかったからこそ、今を生きているわけです。

人生にはいろいろありますから、様々な因縁があって、親に対して100%の感謝は持てなかったとしても、そうであるからこそ、介護の『徳』というものが得られるわけです。徳とは、自分の得にはいっさいならないことで人の得になることを、何の見返りもなくやるから『徳』になるのです。そして、この『徳』は、先ほど述べた、死後の世界つまり霊界でのあなたの評価となり、魂となった永遠の世界での、最高の幸福感を得られるための条件となってくるのです。ですから、介護に取り組む時の心持ち次第では、あの世での幸福と、来世まで続くあなたの人間力となって、あなたに十分還元されてきます。

本来、そうした損得で考えるものではありませんが、この世での、ただ大変なだけの介護には、そういった裏の見返りがちゃんとあるということを心に置いておいてください。介護は、あなたの精神性や人格の向上、魂の筋肉を鍛えるための最高の砥石をゲットできたというふうに感じて下さい。

介護を続ける上での注意点

介護は、愛という徳目を得るための奉仕業であると述べました。しかし、注意点があります。それは、けして1人で抱えて頑張り過ぎないことです。いくら神様が喜ぶ行為と言っても、自己犠牲の度が過ぎて、あなた自身が潰れてしまうことは神様も望んでいません。

神様は、単に『愛』だけを修行課題として与えているわけではありません。介護に限らず、この世の様々な難題や困難に対しては、愛だけではなく、智慧を持って解決する力をつけることも望んでいます。介護問題で言えば、単に介護の負担を一身をささげるだけではなく、この世の制度や、他の家族の支援、分担などもしっかり利用して乗り切ることも大切です。

各地方自治体など役所では、要介護のレベルによって支援策が分かれています。国の制度によって助けてもらえる部分はしっかり利用しましょう。これは介護疲れであなたが潰れてしまい、共倒れになって結果、あなたも、介護される人も生活困難になってしまうことを回避するために、利用できる制度やサービスは、そうなる前に調べて活用する必要があります。

経済的に余裕があれば、民間のサービスでも活用できるものは活用すべきです。介護が辛くなり、客観的な判定でも、要介護レベルが高い場合、たとえば病院へ入院、介護施設に入所する、老人ホームなどに入れるという方法もありますが、ここで問題となるのは、介護される側の意志との衝突でしょう。自分の家族が、自分の世話を放棄してそういった外部施設に投げるという印象を持ってしまったり、他人の世話になりたくない、死ぬなら自宅で死にたい、といった欲求もあるはずです。話し合いや説得をしてしようにも、認知症やアルツハイマーなど、脳が幼児化してしまっている場合は、困難を極めます。その難しさも確かに試練ではありますが、この世的な対応と、心の対応の両輪で解決できるように進めましょう。

あなたも仕事をしなければ、介護が必要な親族を養うこともできなくなるでしょうから、あなた自身の現実生活もまた大事にしなければなりません。自分の生活を優先すると、介護はできない。介護に専念すると自分は、仕事ができなくなる。このような相反する課題をいかにバランスを取ってベストな方向へ解決させていくかが、この世での人生修行でもあるのです。無料相談や、電話相談など活用できるものは活用し、友人、知人などの介護経験のある方に相談して聴く、など、先ずは現実的な対応策を知っておくことです。要介護、要支援などの判定も、納得いかないものであったり、手続きが非常に手間暇かかるものであったりするでしょうけども、現実的な対応策はできる限り手を尽くすべきです。施設や病院に入院することになっても、面会の頻度を保つことで親の方としては、ある程度自分への関心を確認することができます。お見舞いに行ったり、行かなかったりというのは、精神が不安定になりストレスから認知症、アルツハイマーが急激に進んでしまう可能性があるので、できれば避けたいところです。

まとめ

介護問題は、自分の無償奉仕の精神を高める最大の機会。

親の介護は、親に対する感恩報謝の最後の機会。

介護問題は、けして一人で抱え込まず、先ずは相談できるところへ相談する。

現実的な対応策と、心の持ち方の対応策の両方のバランスを取る。

以上、『愛』という観点で述べてきましたが、最後に今まで述べてきた内容を覆すような逆説を言うようですが、介護は本当にきつい部分があるので、あまり深く考えないことも1つです。
根が真面目で誠実な人であれば、あまり真正面から、親への愛の行為、恩返し、などと考えてしまうと、介護中に「ああ、面倒くさいな!」とか「さっき言ったのに、なぜわからないの!」とか怒りの感情がこみあげてきた際に、自分を責めてしまいます。このような元々誠実で優しいタイプの方は、仕事でもプライベートでも根を詰めてやるタイプなので、うつ病になりやすいのです。こうしたタイプは、至らない自分を責めてしまい、自分自身で疲弊する方向へ考え込んでしまうので、もし自身が『真面目なタイプ』という自覚や認識があるのであれば、現実的対応の方を考えるようにして、あまり精神的に思いつめないよう、あえて唯物的に感情を持たずに対応することも大切です。

自分のことばかり頑張っていて、他人の世話をあまりする機会がなかったようなタイプであれば、無償の愛を学ぶ機会とし、人に気を遣い過ぎたり、真面目で思いつめてしまうタイプであれば、「介護は誰もが経験するもの」と、できるだけ割り切った感情で対応することです。

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